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    麺匠の挑戦

    第1話 決断
    アイスキャンデー屋の
    兄ちゃんからの転身

     あれから、もう40年の歳月が流れました。
     当時、私は兄と一緒に、実家のある上五島で、アイスキャンデーの販売に携わっていたんですけど、いつまでも、兄に頼ってはいられないので、思い切って兄の元を離れて、自分一人で仕事をやってみたいなぁという思いが、日に日に募ってたんですね。32歳の頃のことです。
     じゃ、この島で、何ができるかって考えたときに、ふと頭の中に浮かんだのが、手延うどんなんですよ。

    島のあちこちにアイスキャンデーを配達して回っていたとき、お店をやっていた人たちから「兄ちゃん、手製うどんが手に入らないか?」って、よく聞かれてたんです。
     しかし、その当時、日本のうどん発祥の地、船崎地区の各家々では、お手製のうどん作りが盛んだったけれども、そこの人に頼んでも、手製うどん、いわゆる手延うどんは、なかなか手に入らなかったですよ。われわれですら食べたことがなかった。ですから、お得意先から個人的に頼まれて、すぐに注文しても、手元に届くまでに三カ月とか、半年とかかかってました。
     普段、よく耳にしていた機械うどん、(上五島の)「有川うどん」は、乾麺で保存食にもってこいだったから、捕鯨船や遠洋漁業船などに積み込まれていました。
     そんなことが記憶にあったもんだから、(よし、これだ)と思ったんですね。
     若い時分ですからね、それなりに腕力には自信があったんだけれども、資金がない・・・・・・。しかし、手延うどんは、人の手さえあればできる。(細く延ばしていく過程で)麺を八の字掛けする竹の棒は、竹藪に行けば、いくらでも調達できたし、まず設備が要らない。麺を干す乾燥場は姉の習字の練習小屋を使わせてもらった。それと、生地をグルグル回すときに使う盥〈たらい〉ね。
     ただ、知人に「今から五島手延うどん作りば始むっぞ」って誇らしげに言ったら、「こん若造が手延うどんば作っとかよ」とか言われてね、皆から笑われましたよ。誰も、私なんかに、うてあおう(相手にする)としなかった。「うどん作りは島のじいちゃん、ばあちゃんの仕事じゃろうが。手延うどんば作って、商売になんかなんもんか」っていうわけですよ。
     確かに当時、手延うどんは、地域のお年寄りに個人的に注文して作ってもらっていたわけですから、当然と言えば当然なわけです。
     「よーし、今に見とれよ」。そのときの悔しい思いがあったからこそ、今まで、どうにかやってこられたのかもしれませんけどもね。

    第2話 導き
    機械屋さんとの出会いで
    視界が開ける

     手延うどん作りは、想像していた以上に厳しいものでした。人一倍手間のかかる大変な仕事だってことが、実際にやってみて分かった。身を粉にして働いても、わずかな量しか生産できないわけですから。
     手延を専門的に教えてくれる人もいなかった。これでは、いつまで経っても埒〈らち〉が明かない。だから、手延素麺の産地、島原の麺工場にも足繁く通いましたよ。とにかく、始めた以上は行動するしかない、という一心でね。

    暗中模索を重ねる中で、昔、船崎地区でうどん作りをしていた、一人のおばさん(師匠)をようやく探し当て、丸々3日間、弟子になって、伝統の手延の製法を教わったんです。
     機械に頼ることなく、手作り一本で開業した当時のことが、今では懐かしいですね。夜もろくに寝ないで、深夜1時頃から、せっせと、うどんの生地をこねてましたから。最初の何年かは、隣近所に買ってもらって生計を立てていたけども、月日が経つに連れて、こんなことを続けていても食べていけない、家内を養ってもいけないばい、という思いが、何度も頭の中をよぎりましたね。なんとかせんばいかんな、と。これが、製麺業を立ち上げた昭和51、52年当時の状況。こんな中でも、必死に取り組んでいくうちに、五島うどんの魅力にだんだんとハマっていったという感じですかね。
     手製では、とても大量生産などできません。流通していないので、まして島外の人は、五島うどんを食べる機会がないわけですから、五島うどんは「幻のうどん」と呼ばれるようになったんです。手製うどんは一年前から頼まないと簡単には手に入らないよ、っていう意味もあったんですね。
     そんなある日のこと、岡山から、機械製造会社の経営者が突然、島に渡ってこられたんです。その方に、自分のうどん作りへの胸の内を伝えたところ、「君がやるなら、手延の機械を一式、貸与してあげよう。代金は、万事うまく運んでからでいい」と言ってくださった。このときばかりは跳び上がるほど嬉しかったですよ。先行き不透明だった視界が、一瞬にして開けたとでもいいますかね。
     今があるのは、その時々に、いろいろな恩人との、思いもかけない出会いがあったからです。その後、機械を導入できたことが基盤となって徐々に歯車が回り出し、これなら、どうにか商売を続けていけるぞっていう確信が生まれたんですよ。

    第3話 前進
    五島うどん専門店、竹酔亭を創業

     やがて、商品自体の品質が徐々に向上し、2年、3年と頑張っていくうちに、島内に限らず、島外を目指せるようになってきたわけです。すると、島の若者が、手延うどんの作り方を教えてほしいと言ってくるようにもなった。
     島内に、そういう若者が増えれば、町が動く。町が動けば、県が動く。5、6年が過ぎて、町に五島手延うどん協同組合が発足する。
     事業が軌道に乗ると、教えている若い弟子たちに「中のことは俺に任せとけ。おまえたち若者は、島の外に出ろ」って発破をかけてね。後ろから何かに追っかけられるように県外へと販路を求めて、少しずつ、五島手延うどんが広まっていったんです。
     また、これは、昭和59年のことですが、県内の麺業者の知人から、全国で開かれる物産展への参加の誘いがあり、各地のデパートなどでの実演販売が始まります。うどん作りは家内の美枝〈よしえ〉に任せて、俺が全国を回るぞと言ってね、一番長い時で、正月7日に上五島を出発して、福岡に始まり、6月終わりの栃木県宇都宮市まで、半年間、一日も島に帰らずに各地の物産展を転々と渡り歩きましたよ。
     北海道に行ったときは、「五島って、どこですか?」って聞かれる始末。私のことは「ごしま」さんって呼ばれてましたしね(笑)。五島を離れて、遠くに行けば行くほど、五島うどんのことなど誰も知らなかった。
     大阪でタクシーに乗ったとき、運転手さんから「お客さん、どちらから?」と聞かれて、「長崎県の五島です」と。こっちから「何が有名か知ってますか?」と尋ねると、「やっぱり魚でしょう」という答え。「いやいや、五島うどんですよ」って言うと、「へーっ。うどんですか」って、頭をかしげられたこともありましたね。

    こうして10年という歳月が、アッという間に過ぎていきました。
     その当時、島にはまだ、五島うどんが食べられる専門店がなかったので、昭和63年、思い切って、竹酔亭〈ちくすいてい〉という、うどん屋をオープンさせました。うどんは昔から、島の家々ごとに自家製で食べるものだったから、うどん屋を開業したところで、食べに来てくれるお客様がおるやろかって、正直言って、半信半疑でしたけどね。
     だったら、自転車操業なのに、なんで店なんぞ開いたのかって? それは、本土から島に来る人がいたら、ぜひ、うちの店で、五島うどんば食べてみてごらん、ってことですよ。最初から損得勘定なんて、私の頭には微塵もなかったですし、五島うどんのアンテナショップになればな、ぐらいにしか考えていなかったんです。

    第4話 挑戦
    TVチャンピオンで
    讃岐うどんを破る

    創業20年が過ぎた頃だったと思います。高校野球じゃないけどね、野球をやるんだったら、甲子園を目指さなならん。そのためには、高い技術を取り入れて、もっと品質の良い商品を世に出さなならんと、拳を握って「日本一美味しいうどんを目指すぞ」ってね。従業員一人ひとりが、全国大会に出場するぞという新たな夢を抱くようになった。
     ちょうど、その時でしたね。テレビ東京系列の「TVチャンピオン」という人気番組の「全国うどん職人選手権」に出演する話が舞い込んできた。島でうどん屋を運営していたことや、長崎県には「幻の五島うどん」というのがあるという話を番組のディレクターが聞きつけたんでしょう。

    ディレクターに、ほかの地区からは、どんな人が出るんですか、って聞いてみたところ、香川県の讃岐、秋田県の稲庭、埼玉県の加須は、いずれも若手の職人でした。ですから、こんな年の行った俺でもやれるだろうかという不安と、折角のチャンスに五島うどんという名前を全国の視聴者に知らしめたいという希望が錯綜していたんだけれども、「ま、なるごとなるだろう」と開き直って、選手権に臨んだんです。
     東京に着いたときは、黒のコートに黒の帽子を被り、フライパンを手に持って、殴り込みにきたでってね、精一杯、格好つけたつもりだったんだけどね・・・・・・(笑)
     しかし、あんな大がかりのイベントになるとは思ってもみなかった。戦っているあいだ、(もう死ぬばい)と何度思ったことか。実際、体力の限界を超えていたんでしょう、途中、具合が悪くなって、テントの陰で何回も吐いてたんですよ。それだけ過酷な試合だった。
     販売力と腕を競うイベント内容で、短時間にいかに売り上げるか。前半戦は16時、後半戦は19時の締切。結果、稲庭うどんが優勝。次いで五島うどん、加須うどん、讃岐うどん--の順。でも、後半戦は、わが五島うどんが一番だった。当初、出ても、せいぜい300杯ぐらいだろうと見込んでいたんだけれども、終わってみると、千数百杯ですよ。
     しかし、このとき、参加者の反応を見ていて、五島うどんが、全国でいかに知られていないかを痛感したんですよ。われわれの努力なんて、まだまだ話にもならない。今にして思うと、それが一番の収穫だったかもしれませんね。
     このテレビ番組をきっけに、五島うどんが讃岐うどんを破って準優勝したぞって話が、さらに話題を呼んで、新聞・雑誌にも取り上げられるようになり、五島うどんがしばらく、地元で脚光を浴びました。
     当時を振り返ると、うどん作りに従事する関係者の、五島うどんをなんとしても全国に広めるんだ、という熱い思いがね、いい結果に繋がったんじゃないかなって思うんですよ。

    第5話 邁進
    幻の五島うどんを世界に、
    を合言葉に

     協同組合の活動が軌道に乗って、町と県が後押しする形で、今から10年前ほど前に販売会社が設立される。島内の製麺所を中心に、五島手延うどん振興協議会という組織ができて、製麺に関する技術面の向上が図られるようになる。町全体が五島うどん作りをバックアップするようになり、私自身、それまで支えてくださった多くの方々への感謝の気持ちがあったものだから、今度は町全体の発展に貢献するんだという新たな思いが、自然と心の中に沸き上がりましたね。
     最近の、ある市場調査によると、五島うどんの知名度は、ちゃんぽんの60%超に対して、30%にも満たないという結果が出ています。しかし、これは、見方によっては、これからのやり方次第で、五島うどんは、まだまだ伸びていく余地があるともいえるのではないでしょうか。そう、私は前向きに受け止めてるんですよ。
     一時期、島の製麺所の後継者問題が取り沙汰されたけども、ある製麺所では、十何年か前に県外の大学に進学・就職した跡取り息子がUターンで島に帰ってきて、一からうどん作りを修行し、今では立派な後継者になっていますし、心配された後継者問題は、ほとんど解消されていると思いますね。
     このところ、上五島で水産業とか土建業に従事している青年の中から、「手延うどん作りば始めてみたか」っていう人が何人か出てきたんですよ。五島うどんはこれまで、主婦の力に頼ってきた地場産業だったんだけれども、男の担い手が現れるようになった。

    ただし、すぐに独立してやっていくには販売力が足りないから、我々が今まで培ってきた販売力と経験とを生かして、新しい人たちは販売面を考えずに、うどん作りに専念してもらい、生産力を高めるためのサポートをしていければと考えてるんです。若者の夢を叶えるためには、いくらでん協力してあげたいという純粋な気持ちなんです。
     町が悲願とする、上五島に売上20億円のうどんの産地を実現するには、まだまだ力不足だけれども、その目標に少しでも近づけるように、「幻の五島うどんを世界に」ってね、われわれ職人・関係者一丸となって邁進していきたいと思ってるんです。

    第6話 継承
    うどん作りなら、
    いくらでも教えてあげる

    --ふるさと上五島への思いを聞かせてください。

    澄み渡る蒼い海、幾重にも重なる広葉樹の山々。上五島には、この上なく美しい自然が広がっています。一人でも多くの人に、ここ上五島に旅行に来ていただきたいですね。
     最近、五島うどんを食べてみたいという旅行客が増えてきました。海水浴のシーズンなど、小さなうどん屋ですけど、行列のでくっとですよ。ありがたいことです。お客さんから「うどん、美味しかったよ」って言われると、やっぱり嬉しかですね。まだまだ、きばらんば(頑張らんば)って思いますよ。
     上五島の魅力を発信するために、今の私にできることは、第一に、五島手延うどんの担い手の育成だと心得ています。
     実現できるかどうかは別として、例えば、すでに廃校になった小学校の校舎とかを利用できるようにして、伝統の手延うどん作りに取り組むチャレンジャーを応援していきたい。うどんの作り方なら、俺がいくらでん教えてあげるよ、って。

    うち(ますだ製麺)では今、将来を見据えて、うどんを作るスペースをいつでも提供できるように確保してるんです。麺を伸ばす作業が終わったら、うちの乾燥場を利用すればいい。そして、その出来上がった商品をうちが購入し、販売していくという計画です。だったら、設備を購入する資金が要らないでしょ。
     手延の技術をしっかりと覚えて、五年ほど修行したら、独立して工場を立てる。そこの商品も、うちが買い取る。そういううどん作りの担い手を一軒でも増やしていけば、延いては、町の発展にも繋がるのではなかろうか、と。その担い手は島の人でも、もちろん、島外からの移住者でも構わんと思ってます。
     毎年、地元の中五島高校と上五島高校の生徒を招いて工場見学をやっているんだけども、高校を卒業すると、大半が島外に出ていく。なんとか地元に残ってほしいという人もいるけどね、いいじゃないかって。青年は島に残らせんで一遍、島の外に出せ、って言ってるんです。
     島の外で勉強に励み、視野を広げ、一層逞しくなって、将来、Uターンして戻って来たときまでに、われわれ島の先輩が、しっかりと彼らの家族を養っていけるだけの受け皿を作っておいてあげたいと思っているところです。
    (終わり)